今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』が面白かった!
他の人の感想や考察を見て、さらに作品を楽しみたい!
この記事は上記の要望にこたえます。
結局特になにも起こらなかった。けどなんだかすごく不穏な気分、この気持ちは何なんだ。
読み終わった時にこう思ったのは僕だけではないはず。
そこで、この気持ちを解き明かすために本作を考察。
結果、恐ろしい結論が出てしまいました…。↓
- 〈わたし〉の目的は○○することだった
- 〈わたし〉が反映された表紙の意味
- 〈わたし〉がついた嘘
- 〈わたし〉の一番怖かったところ
- 〈わたし〉を通して見えた読者への警鐘
友達とおしゃべりするような感覚で気軽に読んでいただき、楽しい時間を過ごしてもらえれば嬉しいです。
【注意】ネタバレを含む記事です!
【『むらさきのスカートの女』考察】こんな話でした
近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性が気になって仕方のない〈わたし〉は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場で働きだすように誘導し……。
引用元:朝日文庫『むらさきのスカートの女』裏面のあらすじ
第161回芥川賞受賞作。文庫化にあたり受賞記念エッセイをすべて収録。《解説・ルーシー・ノース》
【考察1】〈わたし〉はむらさきのスカートの女と同化しようとしている
作中に登場する〈わたし〉の目的については様々な考察がありますが、僕はむらさきのスカートの女と“同化”しようとしているのではないかと睨んでいます。
理由は3点あります。
1.自分の話をしなくなる
物語の序盤こそ、実姉や子供時代の友達との思い出、家賃を滞納していることなど、〈わたし〉は自分の話をしていました。
しかしバスの中でむらさきのスカートの女の鼻を触った一件の頃から、〈わたし〉は自分の話をほぼしなくなり、よりむらさきのスカートの女の行動を観察するようになります。
この〈わたし〉の語りの変化は、〈わたし〉が自分自身を見失っていき、変わりにむらさきのスカートの女への執着心がどんどん強くなっているように見えます。
2.常軌を逸した行動をしている
終盤、むらさきのスカートの女のアパートで所長とむらさきのスカートの女が口論になり、所長がアパートの柵から落ちてしまった場面。
一部始終を見ていた〈わたし〉はむらさきのスカートの女に駆け寄り、逃亡するよう進言します。
そしてむらさきのスカートの女と一緒に暮らすことを前提に、彼女に財産を隠しているロッカーの鍵、なけなしのお金、定期券を渡しました。
一文無しになった〈わたし〉は差し押さえられたアパートに行き、ガラス窓を割って中に侵入、金目のものが残っていないか必死に探していました。
とても冷静とは言えず、むしろ常軌を逸しています。
いくら好意的に見ていたとはいえ、赤の他人に自身の財産を託すのはかなり危険です。
また、逃亡させたむらさきのスカートの女を追いかけるために移動費がかかることも頭にないようでした。
差し押さえられた自宅に“空き巣”に入る行為にいたっては、我を失っていると言わざるを得ません。
3.むらさきのスカートの女に裏切られても怒らず待ち続ける
結局〈わたし〉はむらさきのスカートの女に裏切られたわけですが、彼女のことを恨むわけでもなく、帰ってくることを密かに期待し公園のベンチに座っている場面で物語は終わります。
どう見ても裏切られているのに、なぜ怒ったり、落ち込んだりしないのでしょうか。
最後の場面ではすでに〈わたし〉の中で、無意識的にむらさきのスカートと同化してしまっているのではないかと僕は睨んでいます。
〈わたし〉の中で自分とむらさきのスカートの女は同一の存在のため裏切られたという感覚がなく、同一の存在だからまた巡り会えると思っているのではないでしょうか。
むらさきのスカートの女がいなくなった後の〈わたし〉は、まるで自分の体を探してさまよう幽霊のように見えました。
上記3点から〈わたし〉はむらさきのスカートの女にはまり込むうちに、無意識的に自分を見失い、自身とむらさきのスカートの女を同一視するようになったと僕は考えています。
【考察2】むらさきのスカートの女の表紙に込められた意味
〈わたし〉がむらさきのスカートの女と同化したいと考えているとすれば、表紙に描かれたイラストも腑に落ちます。
表紙には水玉模様のスカートから、女性らしきふたりの脚が出ているイラストが描かれています。
スカートはむらさきではなく、(〈わたし〉が自分自身を呼称していた)黄色のカーディガンも描かれていません。
これは、〈わたし〉がむらさきのスカートの女と同一の存在となり、〈わたし〉でもむらさきのスカートの女でもない存在になりたいと考えている、ということではないでしょうか。
【考察3】むらさきのスカートの女は有名人ではない
作中では、むらさきのスカートの女は町では知らない人はいないぐらいの有名人だと〈わたし〉は語っていましたが、本当にそうでしょうか。
ぼくはこの〈わたし〉の発言は嘘で、むらさきのスカートの女は有名人ではないと考えています。
理由は2点あります。
1.安アパートに住む普通の独身女性は有名人になるか
むらさきのスカートの女は安アパートでひとり暮らしをしている30歳前後の独身女性ということでした。
特に奇抜な見た目や言動をしているわけでもありません。ただ普通に暮らしているだけです。
住んでいる町も人が行き交う商店街やバス通勤をしている描写もあるため、ある程度以上の規模の都市であることが想像できます。
片田舎ならいざ知らず、ある程度以上の都市にある町で、むらさきのスカートの女のような普通の女性がなぜ有名人になるのでしょうか。
2.誰もむらさきのスカートの女とは呼んでいない
〈わたし〉がむらさきのスカートの女と読んでいる女性、本当に町の人たちにもそう呼ばれているのでしょうか。
〈わたし〉以外の人間が、「むらさきのスカートの女」と読んでいる描写はありません。〈わたし〉だけが「むらさきのスカートの女」と呼んでいます。
上記2つの理由から、むらさきのスカートの女はむらさきのスカートの女とよばれておらず、有名人でもないと推察します。
孤独ゆえの切ない妄想
この推察が正しかった場合、なぜ〈わたし〉はむらさきのスカートの女を町の有名人ということにしたのでしょうか。
それは〈わたし〉の自分を認識してほしいという願望からきていると推察できます。
〈わたし〉は非常に存在感が薄く、周りから浮き、忘れ去られたような存在として描かれていましたよね。
おそらく〈わたし〉は強い孤独感を持っています。
そこでむらさきのスカートの女を自分とは違う周りから注目されている存在ということにし、その注目されている存在と近しいところにいれば、周りに知ってもらえると自身を錯覚させたのでしょう。
『アッ』『黄色いカーディガンの女だ!』の妄想場面は、〈わたし〉の願望が明確に出ていましたね。
【考察4】むらさきのスカートの女に〈わたし〉が興奮している場面が怖い
本書で僕がもっとも怖いと感じたのが終盤。むらさきのスカートと揉めた所長が、アパートの欄干から落ちてしまった後のシーンです。
〈わたし〉は、所長を心配しているむらさきのスカートの女の前に突如あらわれ「所長は死んでしまったからすぐに逃げろ」と進言します。
〈わたし〉は冷静を装っていますが、その後の言動も含め正気の沙汰ではないことがわかります。
- 気を失っている所長を死んだとむらさきのスカートの女に信じ込ませる
- 自分の定期券をむらさきのスカートの女に渡す
- 全財産が保管されたロッカーの鍵をむらさきのスカートの女に渡す
- 南京錠がかかった自分の家にガラスを割って入る
上記の奇行には「これでむらさきのスカートの女と一緒になれる!」「このチャンスを逃してはいけない!」という〈わたし〉の気持ちがあらわれており、本性をむき出しにした様にゾッとしました。
普段もの静かな人がむき出しにする欲望というのは怖いですね。
【考察5】『むらさきのスカートの女』他人にハマり込む人への警鐘
本書には、自分をないがしろにして他人にハマり込む女性たちへの警鐘を鳴らしているように感じた要素がありました。
〈わたし〉がどんどんむらさきのスカートの女にハマり込んでいき、そのうち自分の定期券や財産を惜しげもなくむらさきのスカートの女に渡すようになっていくことです。
自分を見失っている〈わたし〉が起こす行動は大変危険なものでした。
現実の世の中にも他人にハマりこんでしまう女性がいます。
ホストに沼るホス狂、自分の夢を子供に託し必死で売り込むステージママ、行き過ぎたアイドルの推し活…。
誰かに夢中になることは決して悪いことではないと思います。
しかし“度が過ぎ”、自分を見失った彼女たちが不幸になったという話は少なからず聞きます。
最後の場面で〈わたし〉は公園で子どもに肩をたたかれましたが、あれは〈わたし〉ではなく、読者の肩を叩いて警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。
【むらさきのスカートの女・考察】まとめ
今回は今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』を考察してみました。
ちなみにホテルで働いているスタッフさんって、お客さんが残したお菓子やくだものをこっそり食べたり、持って帰ったりしているのでしょうか。
ちょっと気になりました。
ではまた!
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